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日本資本主義の父渋沢栄一が一万円に!五千円に津田梅子、北里柴三郎が千円に紙幣刷新へ

渋谷栄一氏が1万円に

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マジか!福澤諭吉も日本の経済学の祖的な感じだったので、ありですね。

彼の根本にあるのは「会社は公器」という発想。福沢諭吉が民主導を目指した一方で、渋沢は官主導ないし官民連携型を目指した。時代を映すモデルチェンジとも感じられますね。

渋沢栄一とは?

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士、官僚、実業家。第一国立銀行東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。

 

 

第一国立銀行(だいいちこくりつぎんこう)は、1873年明治6年)に渋沢栄一により創設された日本最古の銀行。

第一銀行は今のみずほ銀行に継承されました。

流れを見るとこんな感じ

 

第一銀行

帝国銀行

第一銀行

第一勧業銀行

みずほ銀行

 

民間資本による民間経営の株式会社であるが、国立銀行条例により発券機能等を有していた。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、1896年(明治29年)に一般銀行に改組し第一銀行となる。

1943年(昭和18年)太平洋戦争戦時下の国策により三井銀行と合併し帝国銀行となるが、戦後の1948年(昭和23年)には再度分割し第一銀行として再建。

1971年(昭和46年)に日本勧業銀行と合併し第一勧業銀行となるまで存続。第一勧業銀行は現在のみずほ銀行に繋がる。

日本最初の株式会社でもあり、東京株式取引所創設時より同市場に上場、戦後も東京証券取引所に上場していた。

 

東京証券取引所

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みなさんも上記の画像を見たことがあるのではないでしょうか?

日本最大の証券取引市場で、米国ニューヨーク証券取引所、英国ロンドン証券取引所とともに「世界三大市場」とされる市場です。

 

渋沢栄一は銀行、株式市場を作った日本人と言っても良いでしょう。あまりメジャーな人ではありませんが、お札になるには十分すぎる人物です。

五千円は津田梅子

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五千円は女性から選出ということで、津田梅子だそうです。ホリエモンに見える…

樋口一葉よりはメジャーですね。樋口一葉はマジでマイナーすぎる。女性は少ないので、仕方ないですけど、与謝野晶子とか津田梅子とかいるだろって思ってましたが、今回は津田梅子が五千円になるそうです。そりゃそうだ。

津田梅子とは?

津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日) - 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英学塾(のちの津田塾大学創立者

 

津田塾大学

私立女子大学の最高峰、またその創立の歴史を誇る名門女子大学。 日本の英語教育、女子教育の先駆者である津田梅子が設立した女子英学塾を前身とする。

千円札は北里柴三郎

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野口英世が千円札なら北里柴三郎も千円札になるよなって感じのチョイスですね。

「日本細菌学の父」ですから、渋沢栄一に負けず劣らず素晴らしい功績を残した人物です。

野口英世も凄いのですが、実は彼はインチキだった説とかもあるんですよね。

まぁ、いいか。北里柴三郎の説明をしていきます。

北里柴三郎とは?

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者である。貴族院議員・従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。

 

私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。

「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。

福澤諭吉との関係

ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまった。

この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。

その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組む。

1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた。

 

かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。

長年の東大との対立が背景であるといわれている。医科大学学長であった青山胤通が所長を兼任することになった。

柴三郎はこれに反発し所長を辞し、新たに私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。

狂犬病、インフルエンザ、赤痢発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。

 

福澤諭吉って本当に凄かったんだな…

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